Traditional Theatre: The Case of Japanese Noh
In The Cambridge Companion to Theatre History. David Wiles, Christine Dymkowski, eds. Cambridge University Press. (Forthcoming)
天女舞の身体技法──カマエ成立以前の能の身体 The Body Technique of Tennyo-mai(Dance of Celestial Goddess): the Body of Noh before Development of Basic Posture Arranging Method in Early Edo Period
『ZEAMI:中世の芸術と文化』1号、森話社、2002年。
published in "Zeami: Art and Culture in Medieval Japan", vol.1, 2002.
ISBN: 9784916087249
能に独特の不動の身体性は、〈カマエ〉と呼ばれる姿勢構築技法によって実現される。これが成立したのは江戸初期と考えられる。本稿は、〈カマエ〉のなかった世阿弥時代から能の身体がいかにして変容してきたのかを検証した。とりわけ、世阿弥が近江猿楽から導... more 能に独特の不動の身体性は、〈カマエ〉と呼ばれる姿勢構築技法によって実現される。これが成立したのは江戸初期と考えられる。本稿は、〈カマエ〉のなかった世阿弥時代から能の身体がいかにして変容してきたのかを検証した。とりわけ、世阿弥が近江猿楽から導入し、後に大和猿楽の舞の身体性を根本的に規定した「天女舞」を詳細に分析した。それを通じ、(1)「腰を据える」という技法が天女舞に特有のものであった、(2)腰を据えることは、現在のカマエのそれとは異なり、ダイナミックな身体運動を可能にする技法であった、(3)その後の技法内容の変化は同時代の兵法の技法変化と連動していた、等の事実を明らかにした。
能勢朝次の世阿弥解釈における「型」と「無心」──西田幾多郎の影響をめぐって Form[Kata/型] and Mindlessness[Mushin/無心] in Nose Asaji's Commentary on Zeami's Treatises: on the Influence of Nishida Kitaro
『国文学 解釈と教材の研究』50巻7号、2005年7月。
published in "Kokubungaku: Kaishaku to Kyozai no Kenkyu", vol.50, No.7, 2005.7.
http://ci.nii.ac.jp/naid/40006720828
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世阿弥伝書の範例的な注釈書となった『世阿弥十六部集評釈』(1940-1944年)は、『能楽源流考』によって知られる能勢朝次の、いま一つの主著である。この『評釈』や、それと密接な関係にある彼の理論的論著は、質量共に近代日本における思想的な世阿... more
世阿弥伝書の範例的な注釈書となった『世阿弥十六部集評釈』(1940-1944年)は、『能楽源流考』によって知られる能勢朝次の、いま一つの主著である。この『評釈』や、それと密接な関係にある彼の理論的論著は、質量共に近代日本における思想的な世阿弥受容の一つの極点をなすものであり、今日に至る世阿弥伝書の理解やそれに基づく日本文化論のあり方を、暗黙裡に規定してきたと言える。本稿は、こうした能勢による世阿弥解釈の分析を通じて、それが身体表現をめぐる〈近代の超克〉と言うべき思想的関心に根ざすものであったこと、さらにそこには西田幾多郎の哲学の影響が見られることを明らかにした。
Nose Asaji, a scholar of Japanese literature and theatre, wrote "Commentary on Zeami's Sixteen Treatises“ in early 1940's, which guided the reception of Zeami ever since. I reveal that Nose's commentary reflects his concern for overcoming mind-body dualism by showing traditional corporeal wisdom, and that he developed the idea under the influence of Nishida Kitaro's philosophy.
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Seen by:世阿弥発見:近代能楽史における吉田東伍『世阿弥十六部集』の意義について Zeami Discovered: Significance of Yoshida Togo’s Sixteen Treatises of Zeami for the History of Modern Noh Theater
『超域文化科学紀要』9号、2004年9月
published in 'Interdisciplinary Cultural Studies', vol.9, 2004.
http://ci.nii.ac.jp/naid/40006422644
世阿弥は、明治42年に吉田東伍の校訂を経て出版された『世阿弥十六部集』によって、はじめて世間にその名を知られることになる。本稿はこの世阿弥発見という出来事を、「国文学」・「芸能史」等の近代的な学問制度の確立、坪内逍遙らの「文学」思想、同時代... more 世阿弥は、明治42年に吉田東伍の校訂を経て出版された『世阿弥十六部集』によって、はじめて世間にその名を知られることになる。本稿はこの世阿弥発見という出来事を、「国文学」・「芸能史」等の近代的な学問制度の確立、坪内逍遙らの「文学」思想、同時代の近代能楽のあゆみといった複数の観点から分析し、近代国民国家体制の確立されつつあった明治末年という時期において、それがいかなる文化史的・思想史的意義を持ったのかを論じた。
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Seen by:身体の近代:三世井上八千代と観世元滋 Modern Age of the Body: Sansei INOUE Yachiyo and KANZE Motoshige
『表象』4号、2010年3月。
published in "Hyosho: Journal of the Association for Studies of Culture and Representation", vol.4, 2010.
ISBN: 9784901477642
能楽観世流二十四世家元観世左近元滋は、都をどりを創始した京舞の三世井上八千代の孫である。本稿では、この二人が互いに深い関わりを持ちながら、「芸能の身体」を近代化したことを明らかにした。能と京舞の身体のありようは、リズムに合わせて揃って動くよ... more
能楽観世流二十四世家元観世左近元滋は、都をどりを創始した京舞の三世井上八千代の孫である。本稿では、この二人が互いに深い関わりを持ちながら、「芸能の身体」を近代化したことを明らかにした。能と京舞の身体のありようは、リズムに合わせて揃って動くような近代的(西洋的)身体にしばしば対置されるが、彼らはともに個人的な探求によって生み出した身体性を、「学校」や「メディア」を通じて芸能集団へ全体化し、身体のあり方を統一しようとした。彼らは、伝統芸能の世界にあって、「身体の近代」を構想したのである。
In this paper, I offered an insight in the history of the body in traditional performing arts. Noh(能) and Kyomai(京舞) are both considered to preserve Japanese traditional corporeality. I disproved such conjecture by examining how the bodies in those performing arts were modernized in the late 19th/ Early 20th century Japan.
日本的身体論の形成―「京都学派」を中心として― Formation and Development of Culturalist Discourses on 'Japanese Body': Kyoto School's Philosophy of the Body and Its Reception
『UTCP研究論集』2号、2005年。
http://ci.nii.ac.jp/naid/40007269879
京都学派の哲学者たちは、後の現象学的身体論を先取りするような身体観を提示した。本稿は、こうした京都学派の身体論の生成と展開を西田幾多郎や田辺元のテキストに沿って内在的に読解しながら、その本来の近代認識論批判の立場(日本的「身体論」)が文化本... more
京都学派の哲学者たちは、後の現象学的身体論を先取りするような身体観を提示した。本稿は、こうした京都学派の身体論の生成と展開を西田幾多郎や田辺元のテキストに沿って内在的に読解しながら、その本来の近代認識論批判の立場(日本的「身体論」)が文化本質主義的イデオロギー(「日本的身体」論)へと転じる機制を明らかにした。そのうえで、20世紀後半になって古典芸能の身体性や世阿弥の能楽論を安易に「日本文化」に還元して解釈する「日本的身体」論が横行する言説状況が到来したことを批判した。
The Kyoto School philosophers, Nishida Kitaro, Tanabe Hajime, etc., produced theoretical discourses of the body in 1930's, which foreran Merleau-Ponty's phenomenology of the body. This paper reveals the process of their discussion and examines how those metaphysical debates on the body that appeared in modern Japan(日本的「身体論」) fell into cultural essentialism(「日本的身体」論).

